函館紀行

2014年05月30日 15:47

 函館大経といって、知る人は少ないでしょうが、地名でなく、人名です。
この函館大経(はこだてだいけい・ひろつね、1847-1907)は、我が故郷の北海道・様似町の幌満村の出身です。

 出生時は斎藤義三郎、小野義三郎、箱館義三郎から、函館大経と改名した。
名前の由来は、諸説あり、明治天皇から、黒田清輝から、徳川慶喜から与えられたといわれて改名した。

 元大日本帝国陸軍の軍人、北海道開拓使の職員、北海道庁の職員で、
北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献し、現代の「伝説の馬術師」として言い伝えられている。

 函館大経の弟子のひとりの「武 彦七」がおり、騎手の武 豊の曾祖父に当たります。
函館競馬場、現存する競馬場では、最も古い中央競馬の競馬場である。
ホースマンの始祖の一人とされる函館大経によって設立された函館共同競馬会が1896年に開場したとされている。

 平成26年5月13日、そのJRAの函館競馬場に、サラブレット二歳馬のセリに立ち会うことなり行ってきました。
上野の不忍池の回りを、明治時代天覧競馬が行なわれていたことを知る人は少ない。
函館の地名は、昔は「箱館」という字が、「函館」となった。

 今回韓国の連絡船の水難事故があったが、日本でも昭和29年9月26日に台風により洞爺丸事故と
1,155名の犠牲者を出した海難事故の惨事が函館であったことを思い出す。

 今は、津軽海峡を青函トンネルで、列車で潜って通るが、
つい最近まで青函連絡船に乗り換えて海を渡って内地を行き来していた。

 私は何回この青函連絡船に乗船して上京したことか。
現在のように交通機関が車社会・飛行機社会となることが、考えられなかった。

 青函トンネルを掘削工事でナウマン象の化石が多数出土したのですが、
津軽海峡は陸地が陥没したということの証明です。

 青函連絡船が出航するときは、いつもドラを鳴らして、紙テープで、蛍の光の曲で見送られるので、
何とも哀愁を感じたものです。「ドラ」は、お経を読むとき、お坊さんが鳴らすものです。

 「ドラ」は丸く銅板できていましが、形が似ているので、ドラ焼きというのです。
青函連絡船の船名は、「十和田丸」、「摩周丸」、「羊蹄丸」、「津軽丸」、「洞爺丸」とありました。

 もともと日帰りの予定なので、函館の夜景を見るため、飛行機で夜に出発する予定が、空席がなく、
また翌日の朝一番の空席もなく、札幌まで列車で行き、千歳より翌日7時30分に東京に帰ってくることとなりました。

 はるばる来たぜ函館でした。

 平成26年5月31日
  小関勝紀
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