2022年10月31日 12:59
今年は鉄道開業150周年・東京国立博物館創業150周年
テレビ番組で、蒸気機関車の特集番組で、D-51形、D-52形、
C-57形と蒸気機関車を見て思い出しました。日本の鉄道は
明治3年頃から、大隈重信、伊藤博文が中心となって鉄道
開設を計画して明治5年9月12日正式開業しました。
イギリスからの、100ポンドの融資により、新橋―横浜間の工事
であったとのこと。新橋―横浜間29kmを52分の所要時間であっ
たという。
新橋―品川間は、海上築提で、今は埋立られて陸になっているが、
海の上に鉄道を建築した。富国強兵のこの時代に、日本の近代
化の原動力・推進力となった。
海上の船舶から、陸上の鉄道への移行は大量に人、物資を運ぶ
ことが可能となる。
現在のように、車社会、高速道路が無い時代は鉄道が唯一の
移動手段でした。
当初は、東京―青森間も南満州鉄道株式会社という私鉄民営で
開通していた。
日本国有鉄道は昭和24年6月1日誕生し日本列島全国に開通
する事となり、昭和62年4月国鉄分割民営化により、JRとして、
6つの地域別の「旅客鉄道会社」となった。
昭和年代の、日本の財政硬直化の原因として、3Kといわれ、
「国鉄」、「米」、「厚生年金」のKで、この日本国有鉄道が日本の
財政を圧迫していました。
現在の3Kは「きつい」、「汚い」、「危険」を言いますが。
カナダ横断鉄道も観光で利用しましたが、夜行列車で随分時間が
掛かった事を思い出します。ユーレルパスで、鉄道を利用してヨー
ロッパを旅行した事もおもいだします。
学生時代は、金がなく、時間があったのでシベリア鉄道を利用して
ヨーロッパ旅行をする計画を立てた事もありましたが、これは断念
した。
台湾も鉄道を利用して台中市―花蓮間を利用した事もあった。
生まれ故郷の様似町は、日高本線(今は廃線)の始発駅なので、
蒸気機関車を後ろ向きから前向きに転回するのに人力での作業を
しているのを見ながら小学校に通学していました。
遊びの中で、線路に釘を置いて、ベチャコになった釘を、魚を突く
ヤスを作ったり、サッポロビールの星の絵柄の瓶の蓋を置いて
ウエスタンに出てくる保安官のバッジを作ったりしたものです。
線路に石の様な大きい物を置いて列車を脱線させたら犯罪になり
ますので、あくまで小さい物を置いての遊びです。
様似駅から、何回旅行した事か。最初に様似駅から東京に来た
のは、小学3年生の昭和33(1958)年12月に36時間を要したもの
です。中学生の修学旅行は仙台・中尊寺まで行きましたが、トン
ネルに入ると黒煙の煤と石炭の燃えカスが車中に入るため木の
窓枠を閉めた事を思い出します。
川端康成の「雪国」の文面に「国境の長いトンネルをくぐると
そこは雪国だった」とありますが、トンネルをくぐると煤(すす)だらけ
だったと思います。
「鉄は国家なり」というように、蒸気機関車、蒸気船、鉄精製にも、
大量の石炭が必要でした。石炭は黒煙の煤を出すのでトンネル
の通過、線路の住民への被害で、電気機関車に変換される事と
なりました。
エネルギー源の不足と言われる昨今ですが、コークスとは、石炭の
炭ですが黒煙の煤もなく、火力が凄くありますのでエネルギー源
として再考しても良いのではないかと考えていますが、どうでしょうか。
東京へは日高本線、函館本線、津軽海峡線の青函連絡船、東北
本線か常磐線を利用しての36時間を要する旅ですので、途中駅弁、
お茶、ミカン、スルメを食べながらの旅です。
青函連絡船は皆の夢と希望と不安を乗せて、三等室は船底で雑魚
寝しながら、船底なので丸いハッチから海水が見え、時化(しけ)の
ときはゴロゴロと転がりながら乗船していました。
当時の列車には、灰皿があり車中ではタバコは禁止されていなかった。
痰壺(たんつぼ)もあり、トイレは線路に垂れ流しでした。列車は1等室、
2等室と分かれていて、座席指定はあったが自由席を取るため、早い
者勝で、青函連絡船を降りると重い、大きい荷物を担いで走って席取りを
しました。
チッキという、切符を買うと荷物別にも運んでくれるシステムもありました。
高校生の一人旅では、青函連絡船の入り口に警察官が監視していて
家出少年と勘違いされ、職務質問を受けた事も思い出します。
昭和29(1954)年9月26日台風15号により、日本国有鉄道の青函連絡船
(函館―青森)がこの洞爺丸台風では、1430名死亡、生存者159人、旅客・
貨物船の沈没船5隻という海難事故がありました。
今になって考えると、青函連絡船の出港時には、乗船名簿の提出、
紙テープ、銅鑼(ドラ)のジャンジャンと叩く音、蛍の光の曲で、戦場に
向かうように出港しました。
夜行列車の長旅でも座席は満席で立っている者がいたが、座席は
4人掛けの木造りの直角の向かい合わせの席で、見ず知らずの人
との旅なので、食べ物を貰ったり、世間話をしたりしての車中旅です。
その後は、夜行寝台列車の出現で、体を横にできるようになり、本を
読みながらの夜行列車、食堂車も設置されるという列車となり楽に
なりました。
夜行列車が汽笛を鳴らしながら走る様子は、哀愁を感じるものです。
私も口ずさむ事のできる哀愁・別れを感じる歌謡曲の歌詞には、子
供時代に聞いていた、次の「赤いランプの終列車」※1、「哀愁列車」※2
とかには切ない列車の雰囲気があります。
昔はサラブレッドも貨車・連絡船で北海道日高から京都、関東に運ん
でいたので、サラブレッドも、運搬する人もストレスは相当あったと聞い
ています。
現在は馬匹という車での運搬ですが、2日間は要しますが、私の北海道
への飛行機料金より高い運搬費です。
混雑したスキー列車で、スキーを担いでスキーに行たり、新宿駅から
各駅停車の鈍行列車で飲み明かして小海線の小海に発掘に行った
事もあったが、私も若くエネルギーがあったのでしょうね。
集団就職で夢と不安の生徒を運んだのも集団就職列車で、戦後の
経済復興を支えたのもこの生徒達なのです。
シュシュポッポ、シュシュポッポ、なんだこんだこんな坂、なんだこんだ
こんな坂と蒸気機関車のように頑張りましょう。線路は続くよどこまでも。
令和4年10月31日
小関勝紀
※1
「赤いランプの終列車」春日八郎 三番の歌詞
遠い汽笛に うすれる影に ひとりたたずむ プラットホーム
さようなら さようなら 瞼の奥に哀しく消える 赤いランプの終列車
※2
「哀愁列車」三橋美智也 三番の歌詞
泣いて 泣いて 泣いているのを知らぬげに 窓はふたりを遠くする
こらえきれずに見返れば すがるせつない瞳のように
星が飛ぶ飛ぶ哀愁列車
追加 先日気が付いた事
1945年2月のヤルタ会議は、今ロシアが実行支配している、クレミア
半島にあるヤルタで行なわれた場所です。米国のルーズベルト、英
国のチャーチル、ソ連のスターリンの三者会議です。今のロシア侵
攻の敗戦をこのクレミア半島のヤルタで会議してはどうでしょうか。
ヤルタ会談の協定の不可侵条約を無視して侵攻してソ連は日本の
北方領土を支配したのです。ロシアはそんな国です。
テレビ番組で、蒸気機関車の特集番組で、D-51形、D-52形、
C-57形と蒸気機関車を見て思い出しました。日本の鉄道は
明治3年頃から、大隈重信、伊藤博文が中心となって鉄道
開設を計画して明治5年9月12日正式開業しました。
イギリスからの、100ポンドの融資により、新橋―横浜間の工事
であったとのこと。新橋―横浜間29kmを52分の所要時間であっ
たという。
新橋―品川間は、海上築提で、今は埋立られて陸になっているが、
海の上に鉄道を建築した。富国強兵のこの時代に、日本の近代
化の原動力・推進力となった。
海上の船舶から、陸上の鉄道への移行は大量に人、物資を運ぶ
ことが可能となる。
現在のように、車社会、高速道路が無い時代は鉄道が唯一の
移動手段でした。
当初は、東京―青森間も南満州鉄道株式会社という私鉄民営で
開通していた。
日本国有鉄道は昭和24年6月1日誕生し日本列島全国に開通
する事となり、昭和62年4月国鉄分割民営化により、JRとして、
6つの地域別の「旅客鉄道会社」となった。
昭和年代の、日本の財政硬直化の原因として、3Kといわれ、
「国鉄」、「米」、「厚生年金」のKで、この日本国有鉄道が日本の
財政を圧迫していました。
現在の3Kは「きつい」、「汚い」、「危険」を言いますが。
カナダ横断鉄道も観光で利用しましたが、夜行列車で随分時間が
掛かった事を思い出します。ユーレルパスで、鉄道を利用してヨー
ロッパを旅行した事もおもいだします。
学生時代は、金がなく、時間があったのでシベリア鉄道を利用して
ヨーロッパ旅行をする計画を立てた事もありましたが、これは断念
した。
台湾も鉄道を利用して台中市―花蓮間を利用した事もあった。
生まれ故郷の様似町は、日高本線(今は廃線)の始発駅なので、
蒸気機関車を後ろ向きから前向きに転回するのに人力での作業を
しているのを見ながら小学校に通学していました。
遊びの中で、線路に釘を置いて、ベチャコになった釘を、魚を突く
ヤスを作ったり、サッポロビールの星の絵柄の瓶の蓋を置いて
ウエスタンに出てくる保安官のバッジを作ったりしたものです。
線路に石の様な大きい物を置いて列車を脱線させたら犯罪になり
ますので、あくまで小さい物を置いての遊びです。
様似駅から、何回旅行した事か。最初に様似駅から東京に来た
のは、小学3年生の昭和33(1958)年12月に36時間を要したもの
です。中学生の修学旅行は仙台・中尊寺まで行きましたが、トン
ネルに入ると黒煙の煤と石炭の燃えカスが車中に入るため木の
窓枠を閉めた事を思い出します。
川端康成の「雪国」の文面に「国境の長いトンネルをくぐると
そこは雪国だった」とありますが、トンネルをくぐると煤(すす)だらけ
だったと思います。
「鉄は国家なり」というように、蒸気機関車、蒸気船、鉄精製にも、
大量の石炭が必要でした。石炭は黒煙の煤を出すのでトンネル
の通過、線路の住民への被害で、電気機関車に変換される事と
なりました。
エネルギー源の不足と言われる昨今ですが、コークスとは、石炭の
炭ですが黒煙の煤もなく、火力が凄くありますのでエネルギー源
として再考しても良いのではないかと考えていますが、どうでしょうか。
東京へは日高本線、函館本線、津軽海峡線の青函連絡船、東北
本線か常磐線を利用しての36時間を要する旅ですので、途中駅弁、
お茶、ミカン、スルメを食べながらの旅です。
青函連絡船は皆の夢と希望と不安を乗せて、三等室は船底で雑魚
寝しながら、船底なので丸いハッチから海水が見え、時化(しけ)の
ときはゴロゴロと転がりながら乗船していました。
当時の列車には、灰皿があり車中ではタバコは禁止されていなかった。
痰壺(たんつぼ)もあり、トイレは線路に垂れ流しでした。列車は1等室、
2等室と分かれていて、座席指定はあったが自由席を取るため、早い
者勝で、青函連絡船を降りると重い、大きい荷物を担いで走って席取りを
しました。
チッキという、切符を買うと荷物別にも運んでくれるシステムもありました。
高校生の一人旅では、青函連絡船の入り口に警察官が監視していて
家出少年と勘違いされ、職務質問を受けた事も思い出します。
昭和29(1954)年9月26日台風15号により、日本国有鉄道の青函連絡船
(函館―青森)がこの洞爺丸台風では、1430名死亡、生存者159人、旅客・
貨物船の沈没船5隻という海難事故がありました。
今になって考えると、青函連絡船の出港時には、乗船名簿の提出、
紙テープ、銅鑼(ドラ)のジャンジャンと叩く音、蛍の光の曲で、戦場に
向かうように出港しました。
夜行列車の長旅でも座席は満席で立っている者がいたが、座席は
4人掛けの木造りの直角の向かい合わせの席で、見ず知らずの人
との旅なので、食べ物を貰ったり、世間話をしたりしての車中旅です。
その後は、夜行寝台列車の出現で、体を横にできるようになり、本を
読みながらの夜行列車、食堂車も設置されるという列車となり楽に
なりました。
夜行列車が汽笛を鳴らしながら走る様子は、哀愁を感じるものです。
私も口ずさむ事のできる哀愁・別れを感じる歌謡曲の歌詞には、子
供時代に聞いていた、次の「赤いランプの終列車」※1、「哀愁列車」※2
とかには切ない列車の雰囲気があります。
昔はサラブレッドも貨車・連絡船で北海道日高から京都、関東に運ん
でいたので、サラブレッドも、運搬する人もストレスは相当あったと聞い
ています。
現在は馬匹という車での運搬ですが、2日間は要しますが、私の北海道
への飛行機料金より高い運搬費です。
混雑したスキー列車で、スキーを担いでスキーに行たり、新宿駅から
各駅停車の鈍行列車で飲み明かして小海線の小海に発掘に行った
事もあったが、私も若くエネルギーがあったのでしょうね。
集団就職で夢と不安の生徒を運んだのも集団就職列車で、戦後の
経済復興を支えたのもこの生徒達なのです。
シュシュポッポ、シュシュポッポ、なんだこんだこんな坂、なんだこんだ
こんな坂と蒸気機関車のように頑張りましょう。線路は続くよどこまでも。
令和4年10月31日
小関勝紀
※1
「赤いランプの終列車」春日八郎 三番の歌詞
遠い汽笛に うすれる影に ひとりたたずむ プラットホーム
さようなら さようなら 瞼の奥に哀しく消える 赤いランプの終列車
※2
「哀愁列車」三橋美智也 三番の歌詞
泣いて 泣いて 泣いているのを知らぬげに 窓はふたりを遠くする
こらえきれずに見返れば すがるせつない瞳のように
星が飛ぶ飛ぶ哀愁列車
追加 先日気が付いた事
1945年2月のヤルタ会議は、今ロシアが実行支配している、クレミア
半島にあるヤルタで行なわれた場所です。米国のルーズベルト、英
国のチャーチル、ソ連のスターリンの三者会議です。今のロシア侵
攻の敗戦をこのクレミア半島のヤルタで会議してはどうでしょうか。
ヤルタ会談の協定の不可侵条約を無視して侵攻してソ連は日本の
北方領土を支配したのです。ロシアはそんな国です。
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