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上野の山は小京都      花見のついでに

2020年03月30日 12:34

上野の山にある清水観音堂は、京都の清水寺を模して建てられた
本堂ですが、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれた、円形
の枝ぶりが特徴の「月の松」からの眺める、東叡山寛永寺弁天堂、
上野動物園の弁天入り口から水上動物園、不忍池の周りの景色は
良いものです。
しかし、上野の山の花見もコロナウイルスで、不要不急以外は、
外出は自重しなければならないほど大変の事態となりました。

この清水観音堂は、1631(寛永8)年に、天台宗東叡山寛永寺を創建
した僧侶・天海によって建立されたものとされている。
「清水の舞台から飛び降りる」と言われるほどの高さでは有りません。
清水観音堂の階段下の不忍池の周りに、駅伝の碑があり、「駅伝の
歴史ここに始まる」として、我が国、最初の駅伝は、東京遷都五十周年
記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正六(1917)年四月二十七日、
二十八日、二十九日の三日間にわたり開催された。
スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会
正面玄関であった。
中継地点は京都三条大橋―草津―水口―北土山―亀山―四日市―
長島―名古屋―知立―藤川―豊橋―新居―見附―掛川―藤枝―
静岡―興津―吉原―三島―箱根―国府津―藤沢―川崎―上野不忍池
との記述がある。
不忍池の周りは、明治時代には供覧競馬、万博が開催されたところでも
あります。
今、NHKの大河ドラマは「麒麟がくる」で主人公は、明智光秀ですが、
生きながらえて僧侶・天海が明智光秀ではないかという説があります。
日光に明智平という地名がありますが、この地日光の山奥に明智光秀は
逃れたという説もあります。
本能寺の変には、信長が「家康を本能寺で討ち取ろうという信長の
計略を利用して、逆に信長を討ち取ろうという談合が、家康と光秀の
間でなされた」という推理もあります。
この様なことから、明智光秀と天海僧正は同一人物と囁かれている
由縁かもしれません。
この不忍池・上野の山は、琵琶湖を模して東の比叡山で、東叡山とし
東叡山全景は、不忍池辯天堂、上野東照宮、時鐘堂、釈迦堂、
寛永寺根本堂、上野大仏、清水観音堂と徳川幕府の遺物が多くあり
ます。上野大仏は、太平洋戦争で武器製造のため金属供出令により
大仏の体・脚部を国に強制的に供出したため、面部のみ首から上だ
けが寛永寺に遺ったのもですが、受験生がこれ以上落ちようがない
という縁起からお参りする人で賑わいます。

江戸時代から春には上野の桜の花見の季節ですが、今年はコロナウイ
ルスで、席取りでの花見は禁止となりましたので、せめて桜を愛でながら
ついでに上野の山に来たらお勧めは沢山ありますよ。
上野動物園、東京文化会館、東京藝術大学奏楽堂、旧東京音楽学校奏楽堂、
国立科学博物館、東京国立博物館、東京都美術館、国立西洋美術館、
上野の森美術館、国立国会図書館・国際子ども図書館、正岡子規記念球場、
横山大観美術館、擂鉢山古墳等あります。

コロナウイルスで、花見、パーティー、イベント、宴会、行事等が中止・
延期で関係者は大変ですが、人生の中では色々な事があり、笑える
記録になります事を願っています。

また、今年の2020東京オリンピックが、一年延期が決まり、
2021東京オリンピックになる事が言われております。
私は不要不急でも、不用不休でもコロナウイルス、ノロウィルスには、
感染しないように皆様には多分ご迷惑をかけません。
今回、土曜日、日曜日とも待機、蟄居してましたので、下記に説明をしました。
令和2年3月31日
小関勝紀

以下立て看板の内容の原文書のままです

不忍池
先史時代の不忍池は、武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に
挟まれた入江でした。その後、海岸線の後退とともに取り残された池に
なったと考えられています。
江戸時代以前は、不忍池のあたりは沼地で、藍染川が流れ込み、不忍池
のあたりから先は忍川となって、隅田川へと流れていました。

東照宮略記
元和二年二月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の
家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しい
と遺言された。 
そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永四年(1627年)に本宮を
造営した。その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安四年現在の
社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。 

摺鉢山古墳
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。
ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約千五百年前の前方後円
形式の古墳と考えられる。

上野大仏とパゴダ
正面の丘は、かつて「大仏山」とよばれ、丘上にはその名の通り大きな
釈迦如来座像が安置されていた。丘陵上の正面にある建物は「パゴダ」
(仏塔のこと)と呼ばれるものがあり、中央に薬師如来、左側に月光菩薩、
右側に日光菩薩を安置している。

辯天堂
寛永二年天海僧正は比叡山延暦寺にならい上野台地に東叡山寛永寺を
創建した。
不忍池は、琵琶湖に見立てられ竹生島に因んで常陸(現茨城県)下館城主
水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の
大弁才天を勧請し、弁天島を建立した。

 正岡子規記念球場
「春風やまりを投げたき草の原」 子規
正岡子規(1867-1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市
に生まれた。名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に
紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同年
23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横
空き地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であった
ことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升(のぼる)にちなみ「野球
(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、または随筆、
小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか
「打者」「走者」「直球」などの訳詞は現在も使われている。
これらの功績から平成14年に野球殿堂入りした。

 彰義隊と寛永寺
上野戦争は、戊辰戦争の戦闘の一つ。江戸上野において彰義隊ら旧幕府軍の
薩摩藩、長州藩、佐賀藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。
長州藩の大村益次郎は、アームストロング砲を寛永寺に向けて撃ち、彰義隊を
追撃して逃れたため無血開城で江戸が戦火とならなかった。
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