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池之端界隈

2012年12月05日 10:23

24年11月18日上野精養軒において、東京様似会定期総会・懇親会が開催され、
準備、進行、司会も無事終わり安堵しているところです。
また、今年は「全国都市緑化フェアTOKYO 2012」のイベントも、上野公園、不忍池で
9月20日から10月28日に開催され、まだ蓮の花が咲いているところを不忍池の蓮が四方に刈られ、
モニュメントが創作され、蓮の花とこのイベントの花を眺めながら歩行しておりました。

「或る日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを独りぶらぶらと
御歩きになっていらっしゃいました」と冒頭から始まる、
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に想いを馳せ、私も蓮池の不忍池のふちを朝にぶらぶら五周するのでございます。

不忍池には、鴨が飛来してきていますが、近年毎年一羽、目つきの悪い鴨が飛来しているので、
珍しく地元の人も写真を撮っているので、聞いてみたら、
「鴨」と「雁」のハーフでないかというが、信義の程はわからない。
いくら、すぐそばに小説「雁・がん」の作家の
森鴎外の居住地をそのまま残している、水月ホテル鴎外荘かあるといっても、不忍池には「雁」は飛来しない。

森鴎外の小説「雁」は、舞台として不忍池、無縁坂、弁天堂、上野の山等の池之端界隈が沢山出てきます。
森鴎外の「雁」の文章のなかに
「岡田は日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池側を廻って、上野の山をぶらつく。」
とあるが、 帝国大学の医学部は、無縁坂を登っていたところにあるので、
森鴎外はここを通学していたのではないかな。

「雁」の小説にでてくる、高利貸しの主人・末造は池之端に住んでいることとなっている。
小説の題名の「雁」は、不忍池に浮かぶ雁を岡田が投げた石が偶然にも当り殺されることとなり、
鍋にして食べてしまうというもの。「不しあわせな雁もあるものだ」とある。
「雁」を「お玉」と見立て不幸せとした。

この小説には、他に「蓮玉庵」、「十三や」、「東照宮の階段」等現存するものの名前もでてくる。
私のウォーキングコースは、不忍池、無縁坂、東京大学の「三四郎池」、湯島天神、
上野公園の「正岡子規記念球場」、上野動物園、横山大観記念館、東京芸術大学と同じコースなのです。
このウォーギングコースは竹久夢二も、森鴎外も、夏目漱石も、樋口一葉も、
正岡子規も、芥川龍之介も、横山大観も歩いていたことであろう。

正岡子規の歌に「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」とありますが、
精養軒のそばにある鐘と鈴本演芸場のことで、いまも朝夕六時に御六字でゴーンと鳴らしています。
また、歌に「春風やまりを投げたき草の原」は、正岡子規記念球場のことです。
湯島天神には、泉鏡花の「婦系図」で有名になった湯島の白梅もある。

森鴎外は、不忍池にいるのは、「鴨」で「雁」ではないが、
「鴨」も「雁」も勘違いしていたのではないか。不忍池には、「雁」は飛来しません。
カモにされた気がします。カモられたのかもしれません。
鴨は陸にいるときはヨタヨタ歩いているので、簡単に網でも手づかみできることから、
カモにされる、カモられたというのだそうです。


注釈

上野精養軒 
明治5年創業のフランス料理の老舗で、明治の頃は名士達が馬車で駆けつけ、文明開化の一翼を担う宴会場。

不忍池 
寛永2年(1625)天海僧正は比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで弁天島も築いた。
明治時代は、池の周りは競馬場であり、京都・三条大橋から上野不忍池をゴールとして、大正六年開催され、駅伝の発祥地であります。

三四郎池
加賀藩主前田利常が築造して、池の形が「心」という字をかたどっており、正式名は「育徳園心字池」であるが、夏目漱石の小説「三四郎」以来「三四郎池」と呼ばれている。

正岡記念球場
子規の幼名は「升・のぼる」から、ベースボールを「野球・のぼーる」と、訳したとされている。

無縁坂
さだまさしの歌にあるが、江戸時代に無縁仏を葬った「護安寺」が坂の途中にあることから名付けられた。

岩崎邸庭園
無縁坂に面してあります。


平成24年11月30日
小関勝紀
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