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翡翠(ヒスイ)と黒曜石(コクヨウセキ)とさざれ石

2020年06月29日 16:12

毎年、東京競馬場のダービーの観戦に行っていましたが、今年の
第87回のダービーは、コロナウイルス感染の影響により無観客で
開催されましたので、競馬場での観戦できませんのでテレビでの
観戦となりました。

競馬場では、昼ごはんをとりながら、ビールばかり飲んで大騒ぎ
していたので、毎年イベントとして昼休みに国家君が代の独唱・
吹奏楽団の演奏があることを知りませんでした。

テレビ観戦なので、平原綾香の独唱による、「君が代 注※1」を聞き、
また歌詞を改めて嚙み締めることができました。

「君が代」の歌詞に、「さざれ石・細石」とありますが、どんな石なのか。
細石というように小石の塊の礫岩が大きな巌となり、さらにその上に
苔が生えるまで国家が繁栄することを願う歌詞です。
王朝が一度も滅びることなく続いている世界最古の国が日本で、長い
歴史が当たり前と思っていませんか。
今日では、苔が生えるのではなく、コロナ菌が生えていますが。
この頃、富士山・浅間山の火山爆発があった時の関東地方での被害が
話題となる事が多いが、旧石器時代以前に、富士山、浅間山の火山灰
からなる火山灰地の地層を関東ローム層といいます。
相沢忠洋さんが、昭和24年群馬県岩宿でこの関東ロームの下の地層
から「黒曜石」の石槍を発見しました。
この黒曜石の石槍の発見が日本には、関東ローム層の地層以前に、
人類が存在していたと、日本の考古学研究を変えたのです。
決して、発掘調査で最古の石器としてばらまいてゴットハンドと言われる
人が虚偽で出土したものではありません。
黒曜石は、人類が発明した最も鋭い刃物といわれています。

日本国での、現在では最古の石器は、野尻湖のナウマン象の発掘で
採取された、「月と星」という、まな板と包丁の役割を果たした石器です。
黒曜石も、この野尻湖のナウマン象の発掘でも、沢山発見されています。
黒曜石は、長野県霧ヶ峰高原の和田峠、北海道の十勝地方で出土され
ますが、縄文時代には鏃(やじり)として加工され、日本全国から出土され
ていますが、物々交換としても、海を渡りどのようにして、この黒曜石が
流通したのか、古代人の移動した行動はすごいです。

テレビ番組で糸魚川周辺の海岸で翡翠の原石を探しているシーンがあり、
この頃は翡翠も黒曜石も、気になっていた。
この糸魚川には翡翠が出土しますが、貴重な「地質の宝物」をユネスコ
世界ジオパークとして、認定されている一つの糸魚川です。
糸魚川は、野尻湖のナウマン象を発見した、同じナウマン氏が発見した
大地溝帯(フオッサマグナ)の端にあたるところで、静岡の大井川から、
新潟県の糸魚川の地溝帯です。日本の地溝帯は、大地溝帯と中央地溝帯
と二つあります。

三種の神器は鏡、剣、勾玉(まがたま)ですが、勾玉はこの翡翠から、
作られています。
古事記に出てくる日本神話の神々は首に勾玉を付けております。

翡翠は糸魚川、黒曜石は長野県の和田峠、北海道の十勝地方と
産地が特定されていますが、日本各地から発見されいますが、
どのような物流で伝わり古代人はどのように入手できたのか
不思議でならない。
そのうえ、勾玉も鏃も、現代のような加工する機械・道具のない
時代に、どのように加工・製作をすることが出来たか不思議です。
私は、黒曜石の原石をもっていますが、眺めながら鏃を加工・製作
するのか考えますが、とてもできません。
今度、糸魚川に翡翠の原石を探しに行きたいと思っています。

翡翠の勾玉は「古事記」、「日本書紀」に表記される先史・古代の日本、
黒曜石の鏃は縄文時代より前の石器時代に日本各地から出土され
ますが、たぶん舟で海を渡って伝わったものと思われます。
さざれ石の歌詞のある君が代は、10世紀の「古今和歌集」の読人知らず
の和歌です。
勾玉も鏃も日本全国から出土されますが、古代人は舟で運び、内陸は
物々交換で伝わったものとされています。
君が代の歌詞の由来とされるさざれ石は、岐阜県揖斐川町春日の
「さざれ石公園」にある石灰質角礫岩とされています。
船による航行は風力による帆によって、江戸後期から明治中期になって、
菱垣廻船、樽廻船、東廻り廻船、西廻り航路、北前船が帆舟 注※2 で
北海道から、日本海側、太平洋岸からと大阪まで往来することができた
のであるが、帆舟ができるまでの古代人は海流に任せて翡翠も黒曜石の
原料の交換も、勾玉も鏃の加工技術も、舟での移動で物々交換・伝授
したといえ、凄い普及です。

 「他山の石」とは、他の山から採ったつまらない石でも、自分の宝石を
磨くのに役立てることができるという意味ですが、私の推測では、勾玉は
何らかの他の石で磨いたか、鏃という石器は、石で割って加工していた
ものと考えています。
他人の失敗から学ぶという意味から他山の石になればよろしいのですが。
今思い出しましたが、子供の頃砂浜・河原で拾い、石英閃緑岩という白い
石と白い石を叩くと火花が出る火打ち石があり、花火のように遊んだことを。

地質学では、「石や地層はおしゃべり」とか、「化石のつぶやき」というように、
我々によく話しかけてくるので、「おしゃべり」も「つぶやき」を聞いて創造
しなさいといわれます。
夏目漱石の名前は、「漱石枕流・そうせきちんりゅう 注※3」から「漱石」
と名付けたものです。
                    令和2年6月30日
                           小関勝紀
注※1
「君が代」作詞「古今和歌集」詠み人知らず、作曲明治13年林 廣守、
奥 好義
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
君は、キミと呼びますが「キ」は男性でイザナギの「キ」、「ミ」は女性の
イザナミの「ミ」を意味するといわれています。
「君」は「尹」(イン)と「口」からなり、尹はおさめる、つかさどる、ただす
という意味ですが、尹は杖を持った手の意であり、命令をするための
口を加えた字が「君」の語源とされている。
現代の言葉に訳すと
あなたたちの時代(次世代)は、この日本国の長い歴史を受け継ぎな
がら、一人ひとり(個性)を大事にしつつ、協力し、(この国が)末永く繁栄
するようという意味。
以前、すぎやまこういちさんの講演の中で、君が代の旋律は、陰旋法
音階の「ドレミソラ」の5音で構成され、西洋音楽の「ドレミファソラシ」の
7音ではないが、「八千代に」の「ち」の部分のみ「シ」を使い、東洋独特
の陰旋法だけでなく、西洋音楽のエッセンスも入った「和洋折衷」と言わ
れていました。世界で一番短い歌詞の国家であるとも。

注※2
本格的な船の航路は北前船の出現あたりではないかと考えておりま
すが、江戸時代中期から明治中期30年大阪と北海道を日本海回りで
商品を売り買いしながら結んでいた商船は日本の文化を変えたものです。
高田屋嘉兵衛は、明和6年(1769年2月7日)から文政10年(1827年4月30日)は、北
前船として辰悦丸で活躍した人物です。
司馬遼太郎の「菜の花の沖」の小説のモデルとなっている人物で、様似町
にも寄港しています。

注※3
「石に枕(まくら」し流れに瀬(くちすす)ぐ」と言うべきところを、誤って「石に
瀬ぎ、流れに枕す」と言ってしまい、負け惜しみが強いことのたとえ。
「石に瀬ぐ」とは歯を磨くことで、「流れに枕す」とは耳を洗うことだ、と
言ってこじつけたという故事。

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推理小説と歴史小説

2020年05月29日 13:22

GW中に、NHKBSの番組で、再放送でしたが「100分de名著」
という番組での松本清張スペシャルとして、一挙アンコール
放送があり、「砂の器」、「昭和史発掘」、「点と線」、「神々の
乱心」を紹介していて、全部ゆっくりみました。
そうしたら、民営テレビ局で翌日この「点と線」のドラマを偶然
にも見る事が出来ました。
そうしたら、またまたNHKの「新日本紀行」の番組で「松本清張の
鉄道の旅」を見ることが出来、松本清張とテレビ番組が続いた
ので不思議な感がしました。

「点と線」のドラマを見ていて昭和30年頃の時代背景で、九州
行きの「あさかぜ号」、北海道行きの「十和田号」に夜行列車に乗っ
ているシーンが、すごく懐かしいものでした。
駅弁の弁当箱、どびんに入ったお茶、食堂車、直格の板の椅子、
青函連絡船の乗り換えと現在では見られない、懐かしいものでした。

青函連絡船は、歌謡曲にも「涙の連絡船」「津軽海峡冬景色」等、
この「点と線」、また水上勉の「飢餓海峡」にも、乗船する時提出
する乗船名簿者の有無が推理と題材にしたものでした。
この頃の小説は、貧困・差別・欲望といった、苦境に耐え、必死に
もがき、あがく人間を多く描いています。
青函連絡船では、昭和29年9月26日に台風の中、函館から青森
に向けて出港した「洞爺丸」の転覆事故で乗船客の9割の1,155名の
死者を出した災難です。
私が子供時代に乗船する際には、乗船者名を提出、出港時には
銅鑼(ドラ)が鳴り、紙テープで送られ、蛍の光のメロディーが流れ
戦場に行く雰囲気でした。
今は、津軽海峡は「青函トンネル」が完成して、電車で通過します。

私は、10歳の子供時代にまだ🚂蒸気機関車での夜行列車の旅です。
北海道様似駅から十和田号・青函連絡船に乗り36時間を費やして
睡眠不足でフラフラとして東京に着きましたが、その後も何度も上京
しました。
20歳の大学時代には、「西海雲仙号」に乗り長い時間電車で、
九州佐世保に行った時の電車内の風景を思い出しました。
この九州の旅は、1ケ月間周遊券で、当時の国鉄であれば自由に
移動できるチケットです。
佐世保、長崎、五島列島、阿蘇、高千穂、鹿児島、指宿、ついでに
四国徳島により、阿波踊りを見学して大歩危(おおぼけ)、小歩危(こぼけ)
と観光して「たらいうどん」を食べたことも懐かしく思い出しました。
若い時から一人旅・団体旅行で全国各地・北海道も周遊券で回って
おり、座席も対面での他人と向き合うので、その土地の方言・地名・
名産・名物を覚えたので、地方出身者の税務調査官の訛(なま)り・
姓名・人相で出身地を当てます。
だから、時刻表を見るという事は地名も覚えられるし、旅への期待で
ワクワクして見ていました。
「点と線」の犯人は、病床で旅が出来ないので、同じ気持ちで毎日
時刻表を見て、この時間差の列車・連絡船・飛行機でのアリバイを
作り犯行を考えたストーリーでした。

「点と線」は、アリバイ解明が九州、北海道、山陰地方の移動との時間、
時刻表との闘いです。
この当時の蒸気機関車は、エアコンがないから、窓を開けるとトンネル
通過には石炭の燃えカス・煙が入るので窓を閉めて、シュシュポッポと
汽笛を鳴らしながら走る哀愁列車(※1)です。
飛行機はジエット機ではなく、プロペラ機での低空飛行ですので時間
も掛かるし、ガタガタと揺れるものでした。
「砂の器」では島根県木次線「亀嵩駅」が、出てきますがここ亀嵩は、
雲州算盤の名産のところで、私が会計事務所に就職した22歳の時に
この紫檀・黒檀・柘植の材質の手作り算盤で製作者の名前が刻まれ
た算盤を一か月の給料より高い値段ものを購入しました。
この当時は、私は算盤では、足し算引き算はできましたが、掛け算
割り算は出来ませんでした。

私は、ヨーロッパ旅行に飛行機は安価なアエロフロートのロシア機、
列車はユーレルパスという周遊券を購入して、「トーマスクック・
ヨーロッパ鉄道時刻表」を購入してパリ、マユセイユ、ローマ、
ジュネーブ、ローザンヌ、チュウリヒ、チェルマットからアルプス、
ノルマンディー、ドーバー海峡等と貧乏旅行をしたことを懐かしく
思い出しました。言葉もフランス語、ドイツ語、イタリア語で英語も
儘ならなく、宿・列車の予約もなく、フロントで予約して緊張した
旅行でした。
フランスで、「円」を「フラン」にマネーチェンジするため、銀行に
行きましたが、チェンジでなく、エクスチェンジに行くように指示
されても、意味が分からなかったが、チェンジとは後で分かり
ましたがフランス国なので「フラン」を他の国のマネーにチェンジ
することだと納得しました。

大学生の英語の授業でユーリヒ・マリア・レマルク作の「西部戦線
異常なし」(※2)という小説を読んでいたり、映画では「大脱走」
「史上最大の作戦」「ナバロンの要塞」「ローマの休日」「ひまわり」等を
見たりしていましたので、フランスのドーバー海峡付近の「カレー」
という地名は「西部戦線異常なし」に出てくる地名の所で、ナチス
ドイツ軍がカレーで連合軍を待ち受けて対峙していたら、「史上最
大の作戦」の映画のように連合軍が嵐の夜に不意打ちでノルマンディーの
崖地に上陸して勝利して戦局が変わるきっかけとなった場所であることを、
カレー、ノルマンディーの地に行くまで全く知りませんでした。
フランス国側のドーバー海峡に行きたくパリから、北に向かって列車の
乗り込んだのですが、丁度ドーバー海峡のトンネルを掘っていたので、
日本から技術者・作業員が多くいたので、私がその関係者と現地の
タクシーの運転手が勘違いし、作業現場に連れて行かれたりでの
珍道中でした。

「大脱走」の映画では、スティーブマックイーンがアルプスをバイクで
逃亡するシーン、「ローマの休日」の映画でローマ市内を写し出す
シーンで事前に見ていなかったら感動は無かったことでしょう。
幼少の頃にはテレビ番組で「兼高かおる世界の旅という番組」を
見て、大人になったら行くことが出来るように、頑張ろうと思って
いたかはわかりませんが、少しは実現したかもしれません。
少しリッチになった頃、エールフランス航空のファスートクラスで
旅行した時、待合室でピーナッツをかじりながら缶ビールを飲んで
いる、いま話題のカルロス・ゴーンが一人でいましたが、飛行機に
搭乗したら座席が偶然にも隣同士であった事を、しばらく忘れて
いたが、先日突然思い出した。カルロス・ゴーンさんは、日産の
立て直しで、日本に来たことが、話題になった頃でしたので、
すぐ分かりましたが、朝早くパリに着いたら、タクシーでパリの街に
消えて行きました。
この時、宿泊したホテルは全部五つ星ホテルで、パリは「リッツ」、
ベニスは「ダニエル」、ローマは「ハスラー」、ミラノは「サヴォイア」、
フィレンチェは「メディチ」、美術館等と一寸リッチでした。
私は、今まで海外の旅行先は、国ではアメリカ、カナダ、メキシコ、
オーストラリア、ニュージーランド、ベトナム、タイ、フィリピン、香港、
中国、台湾、ウズベキスタン、モンゴル、北朝鮮、樺太、
ヨーロッパ諸国、イギリス、ギリシャ、等で逆に行っていない国は、
南米諸国、スペイン、トルコ、南極、アフリカ諸国ですが、「死」の
ひとり旅に、いつかは必ず行きますので、その前に、早く行かな
ければ後がない年齢になりました。
旅は心の洗濯、旅は心の貯金、旅は道連れ世は情けとか、色々と
ありますので、皆さまも旅に出ましょう。
鉄道の旅から、話題が脱線してしまいました。

※1 哀愁列車  歌詞 三橋美智也
1.惚れて 惚れて
 惚れていながら行く俺に
 旅をせかせるベルの音
 ツライホームに来は来たが
 未練心につまずいて
 落とす涙の哀愁列車
2.燃えて 燃えて
 燃えてすごした湯の宿に
 うしろ髪ひく灯(ひ)がひとつ
 今宵逢瀬(おうせ)を待ちわびる
 君の幸せ祈りつつ
 旅にのがれる哀愁列車
3.泣いて 泣いて
 泣いているのを知らぬげに
 窓は二人を遠くする
 こらえきれずに見返れば
 すがるせつない瞳(め)のように
 星がとぶとぶ哀愁列車
   昔の歌詞は、素晴らしいと思える今日この頃です。
※2西部戦線異常
エーリヒ・マリア・レマルク 作のドイツ文学で映画化もあります。 
Im Westen nichts Neues ドイツ語名
All Quiet on the Westen Front 英語名
 この時代、レマルクの「西部戦線異常なし」原作はドイッ語、
アーサーミラーの「セールスマンの死」(Death 0f a Salesman)、
アントン・チェーホフの「桜の園」(The Cherry Orchard)原作は
ロシア語、アガサ・クリスティーの「ポアロ事件簿」を英語の授業で
読んだ事を思い出しました。
映画化、舞台等と今でも見る事ができます。

令和2年5月31日
  小関勝紀

目に見えない敵

2020年04月30日 09:57

私は子供時代に山で遊ぶと漆(うるし)に被(かぶ)れたものでした。

今は花粉症でも毎年悩ませられています。
22歳の頃の半世紀前から、繁忙期に会計事務所に勤めているとき、
鼻水・くしゃみが大変で風邪をひいたと思っているから、水浴びした
りして体を鍛えても、毎年繁忙期に風邪気味になるので不思議と
思っていたところ、ラジオでアレルギー性鼻炎という病名を聞いて
わかりました。  
これが、現在は花粉症といわれています。

漆も花粉症も目には見えませんが、コロナウイルス菌、放射能汚染
も目には見えません。
見えていいのは、コロナウイルス感染の終息の「見える化」です。
サン・テグシュベリの「星の王子さま」の文章に、「大切な物は目に見
えない」とあるが、命、魂、空気、気、意識、心、思い、愛などは目に
見えませんが確かに存在します。

伝染病では、マラリア、腸チフス、結核、コレラ、ジフテリア、ペスト、
赤痢、チフス、エボラ出血熱、インフルエンザ等ありますが、今は新型
コロナウイルスですが、早く終息してほしいものです。
エイズを横文字のAIDS、今の新型コロナウイルスをCOVID-19すると
何となくさらに怖いイメージになる。

カミュの「ペスト」のペスト、尾崎紅葉の「青葡萄」の小説にはコレラの
感染がテーマですが、日本では明治時代には、コレラで3~4万人死亡
したと言われております。

コレラは、昔はコロリといわれましたが、ころりと死ぬとの意味での異名です。
スペイン風邪(1918-1920)では、世界中で5億人が感染したとして人類史上
最悪の感染症といわれている。
スペイン風邪で日本では、1918年大正7年453,000人死亡したとされている。
核より怖い感染症と言われるくらい、テロリストが密かに感染症のウイルス
を開発しているという。
この頃の私は人の顔は浮かばないし、人の名前も浮かばないという目に
見えない脳の敵と戦っている事が多々あります。
玉葱も、どうして皮を剥くと目が痛くなるのかわかりませんが、目には見え
ない事に気づきました。

緊急事態宣言が、4月8日から5月6日まで発せられましたが、GWはレジャ-
のはずですが、GWは我慢ウィークです。
春の来ない冬はない。朝のこない夜はない。「3蜜」の密接・密集・密閉を
守り我慢、我慢、忍耐、忍耐の時です。


目に見えない歌  古今和歌集 藤原敏行
秋来ぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞ驚かれぬる  

コロナウイルスで、皆さん大変ですが、金子みすずの歌で心を和ませ
てください。

「星とたんぽぽ」 金子みすず
青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、みえぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、かわらのすきに、だァまって、
春がくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ。
みえぬけれどもあるんだよ、みえぬものでもあるんだよ。

我慢・忍耐して体を鍛えて、明日を待ちましょう、と思い出した歌詞です。
「若者よ」の歌詞

若者よ体を鍛えておけ、美しい心がたくましい、体にからくも、支えられる、
日がいつかはくる、その日のために体を鍛えておけ、若者よ

令和2年4月30日
小関勝紀

上野の山は小京都      花見のついでに

2020年03月30日 12:34

上野の山にある清水観音堂は、京都の清水寺を模して建てられた
本堂ですが、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれた、円形
の枝ぶりが特徴の「月の松」からの眺める、東叡山寛永寺弁天堂、
上野動物園の弁天入り口から水上動物園、不忍池の周りの景色は
良いものです。
しかし、上野の山の花見もコロナウイルスで、不要不急以外は、
外出は自重しなければならないほど大変の事態となりました。

この清水観音堂は、1631(寛永8)年に、天台宗東叡山寛永寺を創建
した僧侶・天海によって建立されたものとされている。
「清水の舞台から飛び降りる」と言われるほどの高さでは有りません。
清水観音堂の階段下の不忍池の周りに、駅伝の碑があり、「駅伝の
歴史ここに始まる」として、我が国、最初の駅伝は、東京遷都五十周年
記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正六(1917)年四月二十七日、
二十八日、二十九日の三日間にわたり開催された。
スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会
正面玄関であった。
中継地点は京都三条大橋―草津―水口―北土山―亀山―四日市―
長島―名古屋―知立―藤川―豊橋―新居―見附―掛川―藤枝―
静岡―興津―吉原―三島―箱根―国府津―藤沢―川崎―上野不忍池
との記述がある。
不忍池の周りは、明治時代には供覧競馬、万博が開催されたところでも
あります。
今、NHKの大河ドラマは「麒麟がくる」で主人公は、明智光秀ですが、
生きながらえて僧侶・天海が明智光秀ではないかという説があります。
日光に明智平という地名がありますが、この地日光の山奥に明智光秀は
逃れたという説もあります。
本能寺の変には、信長が「家康を本能寺で討ち取ろうという信長の
計略を利用して、逆に信長を討ち取ろうという談合が、家康と光秀の
間でなされた」という推理もあります。
この様なことから、明智光秀と天海僧正は同一人物と囁かれている
由縁かもしれません。
この不忍池・上野の山は、琵琶湖を模して東の比叡山で、東叡山とし
東叡山全景は、不忍池辯天堂、上野東照宮、時鐘堂、釈迦堂、
寛永寺根本堂、上野大仏、清水観音堂と徳川幕府の遺物が多くあり
ます。上野大仏は、太平洋戦争で武器製造のため金属供出令により
大仏の体・脚部を国に強制的に供出したため、面部のみ首から上だ
けが寛永寺に遺ったのもですが、受験生がこれ以上落ちようがない
という縁起からお参りする人で賑わいます。

江戸時代から春には上野の桜の花見の季節ですが、今年はコロナウイ
ルスで、席取りでの花見は禁止となりましたので、せめて桜を愛でながら
ついでに上野の山に来たらお勧めは沢山ありますよ。
上野動物園、東京文化会館、東京藝術大学奏楽堂、旧東京音楽学校奏楽堂、
国立科学博物館、東京国立博物館、東京都美術館、国立西洋美術館、
上野の森美術館、国立国会図書館・国際子ども図書館、正岡子規記念球場、
横山大観美術館、擂鉢山古墳等あります。

コロナウイルスで、花見、パーティー、イベント、宴会、行事等が中止・
延期で関係者は大変ですが、人生の中では色々な事があり、笑える
記録になります事を願っています。

また、今年の2020東京オリンピックが、一年延期が決まり、
2021東京オリンピックになる事が言われております。
私は不要不急でも、不用不休でもコロナウイルス、ノロウィルスには、
感染しないように皆様には多分ご迷惑をかけません。
今回、土曜日、日曜日とも待機、蟄居してましたので、下記に説明をしました。
令和2年3月31日
小関勝紀

以下立て看板の内容の原文書のままです

不忍池
先史時代の不忍池は、武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に
挟まれた入江でした。その後、海岸線の後退とともに取り残された池に
なったと考えられています。
江戸時代以前は、不忍池のあたりは沼地で、藍染川が流れ込み、不忍池
のあたりから先は忍川となって、隅田川へと流れていました。

東照宮略記
元和二年二月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の
家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しい
と遺言された。 
そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永四年(1627年)に本宮を
造営した。その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安四年現在の
社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。 

摺鉢山古墳
摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。
ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約千五百年前の前方後円
形式の古墳と考えられる。

上野大仏とパゴダ
正面の丘は、かつて「大仏山」とよばれ、丘上にはその名の通り大きな
釈迦如来座像が安置されていた。丘陵上の正面にある建物は「パゴダ」
(仏塔のこと)と呼ばれるものがあり、中央に薬師如来、左側に月光菩薩、
右側に日光菩薩を安置している。

辯天堂
寛永二年天海僧正は比叡山延暦寺にならい上野台地に東叡山寛永寺を
創建した。
不忍池は、琵琶湖に見立てられ竹生島に因んで常陸(現茨城県)下館城主
水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の
大弁才天を勧請し、弁天島を建立した。

 正岡子規記念球場
「春風やまりを投げたき草の原」 子規
正岡子規(1867-1902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市
に生まれた。名は常規(つねのり)。子規は、明治時代のはじめに日本に
紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同年
23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横
空き地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であった
ことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升(のぼる)にちなみ「野球
(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、または随筆、
小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか
「打者」「走者」「直球」などの訳詞は現在も使われている。
これらの功績から平成14年に野球殿堂入りした。

 彰義隊と寛永寺
上野戦争は、戊辰戦争の戦闘の一つ。江戸上野において彰義隊ら旧幕府軍の
薩摩藩、長州藩、佐賀藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。
長州藩の大村益次郎は、アームストロング砲を寛永寺に向けて撃ち、彰義隊を
追撃して逃れたため無血開城で江戸が戦火とならなかった。

菩提

2020年02月28日 09:48

ラジオのNHKの深夜番組にある「ラジオ深夜便」を聞いていたら、
シューべルトの「菩提樹」という曲が流れました。
日本語とドイツ語の歌詞でそれぞれ曲が流れました。
私はドイツ語で歌える曲は、シューベルトの「野ばら」だけです。
ドイツ語では菩提樹は、「Der Lindenbaum」で、野ばらは
「Heidenroslein」という曲です。
特に野ばらは、歌詞があのゲーテ、作曲がシューベルトという曲
ですが、日本語の訳詩は原文に忠実ですが、菩提樹は作曲が
シューベルト、ミュラーの「冬の旅」の詩集訳詞は原文とかけ離れ
ているような気がしてならない。
作曲は「菩提樹」も「野ばら」もシューベルトで「野ばら」で思い出
した事ですが皆さんが、子供時代に唱歌として歌った「野ばら」の
歌詞は下記のごとくです

童は見たり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽かずながむ
紅(くれない)におう 野なかの薔薇
手折(たお)りて往(ゆ)かん 野なかの薔薇
ゲーテの原文と日本語の直訳は下記の如くで
Sah ein knab ein Roslein stehn ある男の子が1本の小さなバラを見つけました
Roslein auf der Heiden     荒野の上の小さなバラを
War so jung und morgenschon  とても若々しく、朝のように美しいものでした
Lief er schnell , es nah zu sehn  彼はいそいで走って、それを近くで見ようとしました
Sah ‘s mit vielen Freuden    大喜びでそれを見ました
Roslein Roslein Roslein rot   小さなバラよ 小さなバラよ 赤い小さなバラよ
Roslein auf der Heiden     荒野の小さなバラよ

学生時代に今は亡き友人の本立てにゲーテの
「Die Leiden des jungen Werthers」=「若きウェルテルの悩み」
という本があり、第二外国語はドイツ語を履修しているのかと、
たずねたらこの本は英語と思い購入したというから、それでは、
英語も理解していない、「若き飢えてる悩みを持つ学生」だよ
と大笑いしたことを思い出します。

また、NHKの別のテレビ旅番組で、ドイツのワイマール市を散策
するシーンで紹介され、ここがゲーテの生家と紹介されていまし
たが、ワイマール憲章のワイマール市と知りビックリでした。
ワイマール市といえば、ヒットラーの国民党が独裁体制に進んだ
地でもあります。

菩提とは、サンスクリット語の音写であり、仏の正覚の智、仏の
悟りの境地、極楽往生して成仏すること、悟りの智慧などを意味
する仏教用語です。

私はお釈迦様がこの菩提樹の木の下で悟りを開いたといわれる
が、この菩提樹の材質の数珠玉からなる、数珠をもっています。
その悟りを開いた衰弱した体の時、乳がゆをさしだした娘の名が
スジャータと言って、コヒーに入れるミルクの名前になってます。
菩提寺とは、この「菩提」から使われているのですが、私には
「煩悩」ばかりです。

青年時代はウィーン不良少年合唱団といわれるくらい、キーが
高くカラオケで歌ってましたが、いまは低音の魅力です。

日本では、師走12月の年末にベートーヴエンの交響曲第九ニ
短調をドイッ語で合唱しますが、この「歓喜の歌」を歌ってみたく
合唱団に入りたいと願っています。
日本で最初に「第九」が演奏されたのは、徳島県鳴門市にあっ
たドイツ兵の捕虜の収容所であるとの事です。
 ついでに、「第九」歓喜の歌Ode an die Freudeの歌詞は
O Freunde,nicht diese Tone!
Sondern laβt uns angenehmere
Anstimmen und freudenvollere
Freude! Freude!
 

令和2年3月1日
小関勝紀